いま大人が考えるべき
「子どもの権利」

コロナ禍の中、子どもの貧困や虐待、教育格差などの問題が浮き彫りになっています。社会や大人の事情に子どもが振り回されていいのだろうか──そんな疑問からgurumiメンバーの中に「子どもの権利とは何か」という問いかけが芽生えてきました。
自分たちが子どもの頃は「自分の権利」という感覚はなかったけれど、自分が子育てする立場になり、社会情勢が変わる中、私たち大人は「子どもの権利」をどのように考え、どのように向き合えばよいのか。「子どもの権利」について長年研究されている札幌国際大学教授・塚本智宏先生に聞きました。

塚本 智宏さん

札幌国際大学人文学部 教授

19世紀以降のヨーロッパ教育や子どもの歴史を研究。近年は、子どもの権利思想と国際的な子どもの権利条約への関心を深め、子どもの権利の歴史や関連するポーランドの小児科・教育家・作家J.コルチャックの子ども・教育思想を研究・紹介している。
主な著書 『子どもにではなく子どもと』(かりん舎)2018、『コルチャックと「子どもの権利の源流」』(子どもの未来社)2019

子どもの権利は「人間としての権利」である

─「子どもの権利」という考え方はいつ頃生まれたのでしょうか?

子どもの権利を考える上で、まずは子どもを含むすべての人間の権利=「人権」についてお話ししましょう。人権は「人間が人間である」という理由のみで保障される権利のことをいいます。この考え方は18世紀後半にアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に現れ、20世紀中ほどになって世界人権宣言や日本国憲法においても確定されています。しかし当初の「人権」には、女性も子どもも含まれていませんでした。
女性の権利は19世紀以降に、そして子どもの権利は19世紀末からの世紀転換期以降に欧米諸国や日本で次第に議論が始まり、やがて20世紀前半には女性参政権を認める動きが広がり、子どもの権利についての発言は20世紀後半に国際的に活発化するという順です。
国際社会では、1948年に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と謳う国連人権宣言が出され、1979年に「国連女性差別撤廃条約」、1989年に「国連子どもの権利条約」が採択され、以降は高齢者や障がい者、先住民族の権利に関する条約や宣言が続きます。

─人間や女性の視点で考える「権利」と子どもの「権利」はどう違うのでしょうか。

子どもの権利の考え方自体も、世界史と共に変化し、当初は、①大人の危険な社会から保護されること、続いて、②生きるための援助やケアを受けさらに教育を与えられることが子どもの時期特有の権利として認められ、最後に、③大人の人権や女性の権利のように、自ら自由に意見を述べたり社会参加の権利行使をしたりすることが認められるようになってきています。
ところで、そもそも権利という言葉の意味を確認しておくと、これは明治期に西洋から入ってきた概念ですが、英語でいうと「right」。「正しい・正当な」という意味で、ドイツ語やロシア語、ポーランド語でも同様の意味を持つ単語です。つまり権利はもともと人として社会で生きていくうえで正当なもの、なのですが、漢字で書くと(権力や利益の意味が強く)力ずくで自分の利益を優先するようなニュアンスが出てしまい、子どもの権利を主張するとわがまま好き勝手であるかのように思われがちです。さらには未だに「人権は大人のものであり、教育を得て大人になる子どもにはまだ権利はない」と考える向きもあります。でもそれは「子どもはまだ人間ではなく、教育によってだんだんと人間になる」という粗雑な論理に過ぎません。
ポーランド出身の小児科医で後に孤児院の院長、教育者、作家として活躍したヤヌシュ・コルチャック(1878-1942)は、子どもは生まれた瞬間からすでに人間とであると考え、教育実践を重ねてきました。コルチャックは第二次世界大戦中に孤児院の子どもたちとともにホロコーストの犠牲となりましたが、彼が提唱した人間としての子どもの権利の尊重は、1989年に制定された子どもの権利条約の精神的支柱となりました。思い出すのは、子どもの権利条約が制定された頃、日本では校則や体罰の問題と生徒の人権、子どもの虐待からの保護・権利などが可視化されつつありましたが、子どもの権利という考え方には拒否反応の方が多く、世界から遅れを取ってしまいました。日本が子どもの権利条約を批准したのは1994年、条約成立から実に5年もかかっていますが、当時の首相はとっさに「権利?子どもはまず学ぶものではないか」と言いました。この発言は、子どもを(権利を有する)人間として意識できない大人の発想をよく表したものであり、こうした意識が続く限り、子どもの権利は単なるお題目のままにならざるを得ないと感じています。

─現代日本で「子どもは人間である」と考えるのは当然だと思うのですが……。

私が大学の講義で学生に「子どもは人間なのか、あるいは人間ではないのか」と質問すると、彼らは疑いなく「子どもも当然人間である」と答えます。しかし私が「小・中・高校、大学と学校で教育を受けることでだんだん一人前の人間になってきたのではないか?」「子ども時代は人間になる途中の、未完成の何者かだったのではないか?」と意地悪く問いかけると、みんな動揺します。学生の多くは自分や子どものことを、大人と同じ一個の命をもつ「人」、あるいは生物学的な「ヒト」としては意識していますが、「子どもは教育によって人間になる」というこの社会に君臨する大人の視点に一瞬たじろぐのですが、子どもは「すでに人間とである」というコルチャックの見解に出会って再度認識を新たにすることになります。

─札幌市は男女共同参画の推進、全国初の児童会館や人形劇場の開設など、子どもに目を向けた取り組みをいち早く政策に取り込んできています。札幌市における子どもの権利をめぐる状況について、塚本先生はどう感じていますか?

国内ユニセフでは「子どもにやさしいまちづくり事業」を推進しており、子どもの権利条約を具現化するまちづくりのモデル事業が全国各地で実施される現状があります。
札幌市も「子どもの権利条例」を独自に定め、「自立した社会性のある大人への成長」「子どもの視点に立ったまちづくり」「権利侵害からの救済」を目標にさまざまな取り組みを進めていますが、ようやく始まったかなという印象です。子ども議会なども開かれていますが、観光促進に関する提言などを子どもにさせるのはどうなんでしょう?むしろ今の札幌の子どもたち自身が望むことで、彼らの最善の利益を考えるにふさわしいテーマや課題について、私たち大人は、彼らを子ども市民として信頼し、時には、財源を保障して、その計画と実行をゆだねるといったことはどうでしょうか(もちろん大人のバックアップは必要です)。これと連動して、学校で学ぶ行事のことや教育課程のことについても共に考え、何かひとつでも子どもたちから意見を聞いて今学びたいと思っていることなどがどこかで実現するようなことも期待されます。子どもの声が出せるようにし、出したら大人たちは真剣に考えてくれてると思われるように、大人がもっと知恵を絞る余地があると感じています。意見表明・参加は、単に大人の世界に子どもを引き入れることではなく、この社会が子どもと大人で成り立ち、子どもが果たさなければならない領域においては子どもに責任を持ってこの社会をシェアしてもらうことが必要です。

「子どもは自分のものではない」と大人自身が認めること

─子育てにおいて、親は子どもの権利をどう捉えるべきでしょうか。

すべての大人に自覚・確認してほしいのは「子どもはあなたのものではない」ということです。コルチャックは著書『子どもをいかに愛するか』の前半で、次の点を述べています。

  • 1.子どもを、あなたたちとは違う一個の人間として受け入れること。
  • 2.子どもはあなたと同じように、自分の「願いや要求やエゴイズムさえ持つ」一個の人間であることを理解すること。
  • 3.決して“あなたのものではない”(自己所有観念をもってはならない)ということ。

大人は赤ちゃんを守るべき存在と考えますが、赤ちゃんは言葉がしゃべれなくても、笑ったり泣いたり手足を動かしたりしながら実は自己主張しています。子どもは生まれながらにして、大人と同じく感性と知性と経験を持つ一個の人格なのです。大人と子どもの違いは、人格を構成する3要素のバランスの違いにすぎません。

いわば赤ちゃんの人格のほとんどは感性ですが、年齢とともに経験や知性が増え、感性が占める割合が相対的に少しずつ小さくなっています。とはいえ子どものうちは大人よりも感性が大きいので、論理的な思考に基づく会話が難しいのも当然です。子どもは大人のキャパシティでは推し量れないほど豊かな感性を持っていて、言葉にできなくても何かを感じて訴えようとしている。このように考えると子どもの権利を自然に受け入れることができ、子どもとの付き合い方が俄然面白くなるのではないでしょうか。

─赤ちゃんが泣くことで空腹や排泄を訴えるのも、赤ちゃんが生きるために行使できる権利なんですね。人格構造のバランスの違いと考えれば、子どもは自分とは違う人格を持つ存在なのだと腑に落ちますし、親の考えとは異なる反応や行動をとったとしても、見守ったり尊重したりできるようになれそうです。

子どもの権利を、特に、大人と子どもの日常関係からを考えたコルチャックは、その最も基本的なものを3つ挙げています。

  • 1.子どもが主体的に生きること
  • 2.子どもが今日という日を充実させること
  • 3.子どもが自分らしくあるがままに存在すること

子どもの権利を守るために親や大人がするべきことは、子どもが自分で判断したり決定したりして生きていくことを尊重すること。子どもが選択する道をバックアップすること。子どもが自分自身を肯定し、自分らしく生きていくことを、過保護や過干渉などによって邪魔しないこと。そして、社会において子どもに関する決まりがある場合は、必ず子どもの意見を聞くことです。これらができるかどうかは、大人がどれだけ子どもを信頼できるかにかかっています。言い方を換えれば、大人自身が子どもを信頼できる人格に成長できるかどうか、ですね。
大人が子どもの権利を尊重するということは、けっしておおげさなことでなく、まずは、日常目の前の子どもが大事な存在だと認めること、認められた子どもは自分という人間を大事にしてくれる周囲の大人に信頼をよせ、本当の意味で、大人にしてほしいことを遠慮なくいえるようになるでしょう。

─日本における子どもの権利は今後どうあるべきでしょうか。

日本の学校教育は、受験を見据えた学習プロセスで、「あなたのため」「将来のため」という一見子どもを思いやるかの言葉とは裏腹に、いま子どもが考えていること、したいことが反映されていないのです。立ち止まって、ひょっとしたら親は子どもの中に自分が見たいと思っていることだけを見ようとしているのではないかと自らに問うてみるべきです。子どもの権利を尊重するなら、あなたが考える、いつ訪れるかわからない「将来の幸せ」よりも、子どもの考える、その子の心に芽生えている「今ある幸せ」を共に考えてやるべきなのではないかと。人間として今こうしたいと思っていることを見極めて、子どもが主体的に意思決定できるチャンスをたくさん用意してあげることが大切だと思います。その結果うまくいかないこともあるでしょうが、失敗も含めて自己決定の経験を積み重ねることで、子どもは自分の人生を自分で作っていくことができます。それこそが子どもが自分の意思で自由に生きる権利なのです。
広く子どもの権利を認め、意見を受け入れて尊重する風土は、まだ日本に定着しているとはいえません。しかし社会においてこういった子どもの権利が確立されれば、高齢者や障がい者の権利にも波及し、まちや国、世界までも変える力になることでしょう。

gurumiの思い

言葉がしゃべれない赤ちゃんにも権利があり、自分から訴えかけている。子どもと大人の違いは人格を構成する3要素のバランスの違いにすぎない。子どもが「いまの幸せ」を自分で選択する経験を大切にする。親してハッとさせられることばかりでした。
子どもの権利を尊重することは、親子関係だけでなく社会全体をより良い方向へ導く力になることを、多くの大人に知ってもらえることを願ってやみません。

テキスト:佐々木美和 写真:辻田美穂子