インタビュー

子育ての「いま」が
社会の「未来」を創る。

Think 1

よしだとおる

吉田 徹 さん

(政治学者・大学教員)

プロフィール

1975年生まれ。東京都内の四年制大学を卒業後、経産省の外郭団体で海外を含め3年間勤務。その後大学院で修士号、博士号を取得、2006年より北海道大学法学研究科で教鞭をとる。フランスやアメリカでの研究教育並びに子育ての経験を持つ。2016年より同志とともに「西野こども食堂Kaokao」の運営にも携わっている。
Twitter:@yoshidatoru

さまざまな分野の専門家に「まちのこそだて」の現状と課題について伺い、これからの子育てについて考える「Think」シリーズ。第一回は、政治学者で北海道大学法学研究科教授の吉田徹先生。「保育園落ちた日本死ね」や子連れ議会問題などが議論を呼ぶ昨今、子育て世代は社会とどう向き合うべきなのか、いろいろ質問してみました。

子どもを大事にしない社会は
子どもに復讐される

―家庭のかたちも働き方も多様化する今、子育てのかたちも多様化しています。しかし共働きを悩ませる保育園不足やひとり親世帯の貧困などの現状を見ると、子育ての現実と政策がうまく結びついていないと感じます。

かつての日本は終身・正規雇用のお父さんがお金を稼いで、お母さんが家庭で教育や親の介護を担う「男性稼ぎ手モデル」が標準でした。このモデルが崩壊するのが90年代前半で、この時には専業主婦世帯と共稼世帯の数が逆転しています。それも女性の社会進出が意識的に進められた結果というより、バブル崩壊後に家計収入が減り、他方でヨーロッパ諸国のように教育や介護は公的な負担によるものではなく、つまり税金ではなく個人で負担しているために、女性が家計を補助しなければならなくなったからでした。だから女性は、子育てやケアワークに加えて稼ぎ手としても、たくさんの矛盾を背負わされることになりました。正規雇用されている男性の側も、長時間労働など、働き方が変わったわけではないので、家事の共同分担も難しい。スウェーデンの男性が1日に家事する時間は4時間、日本男子は1時間に過ぎませんが、週労働時間も5時間くらい日本の方が長い。だから男性にも負担がのしかかっている。 この矛盾を突破するには、男女ともにそのキャリアと生活の両立を自己責任ではなく、社会の側から支援すること、具体的には育児費用や大学進学の費用、介護などの負担を国の負担、税金で補うことが必要です。日本は家族関係の財政支出は先進国の中でも少なく、しかも税を通じた再分配がほとんどなされていません。日本の社会保障費は過去25年で2倍に増加しましたが、これは現役世代が働けなくなった定年以降に渡される分がほとんどです。

世界でみても、働いているシングルマザーの割合は日本は高い。でもシングルマザー世帯の半数が貧困ラインにある。これは、働くことと子育てすることが両立できない社会であることを意味しています。だから、例えばシングルマザーの問題はみんなの問題でもあるのです。

―子育てを支える社会保障には意義があると思いますが、子どもを預ける保育園が不足したままではお母さんが働きたくても働けない。まず保育環境を充実させれば働く女性が増えるし、共働きで収入が増えれば「もうひとり子どもを産んでもいいな」って思う人が増えるかもしれない。子どもを育てることで将来の社会を支える労働人口も増えるし、日本経済にとっても良いことずくめじゃないかと思うんですが。

保育園は近隣環境や安全基準などの規制が厳しいので、新しく作るのは難しい。フランスなどでは当たり前になっている保育ママなどの制度を作って規制緩和に取り組んでいるところもありますが、安全と規制緩和は両立しにくい。自治体が融資をしたり、土地の取得条件を緩和したりするなど、思い切った施策が必要です。

ただ、一番の問題は、社会に根強く残る「昭和のマインドセット(意識)」ではないでしょうか。戦後の高度成長を牽引してきた団塊の世代は、右肩上がりの時代、つまり「頑張れば結果はついてくる」という思考回路からなかなか抜け出せません。だから女性の社会進出や共働き世帯が不可避であるにも関わらず、子育てしつつ働きやすい環境を整備することに意識がまわらなかったんです。戦後は、そもそも人口が増えればこそ経済も成長していった時代です。いまのような縮小社会で同じことをやれば、結果がついてくるどころか、過労死するか野垂れ死んでしまうのがせいぜいです。「明日は昨日よりもいい世界」だったことが約束されていた時代と、「明日は昨日よりも悪くなる世界」が当たり前の時代の違いといってもいいかもしれません。

消費税の増税分で、保育・幼児教育のほかにも大学教育の無償化も進められる予定ですが、意識調査をみると、多くの先進国では約9割の人が「大学教育を施すのは国の責任」と考えているのに、日本でそう考えている人は7割に過ぎず、あとは「家庭の責任」だと考えている。ただ、家庭の責任で大学教育を提供できていたのは、さっき言ったように男性稼ぎ手モデルが可能だった時代の話です。こうした昭和のマインドセットに社会全体が耐えきれなくなっているのが現状ではないでしょうか。

―家庭の事情が子どもの進路を左右することも多いですもんね。

子どもがどう処遇されるかは、国の社会のあり方を大きく決めます。子どもは将来、社会がどうなるかの先行指標です。子どもの教育は家庭だけの問題だけではないし、教育は家庭にだけ任せていてもいけない。アメリカのノーベル賞経済学者ジェームズ・ヘックマンは40年以上にわたる追跡調査で、幼児教育への投資がその後の生産性や幸福度、所得の伸びにつながることを証明しました。つまり、5歳くらいまでの教育がもっとも大事。日本でも、この時期によい教育を受けたかどうかが、老後の良好な健康状態や精神状態の維持と関係しているとの研究があります。

この段階の教育は、「非認知教育」であること、つまり社会性や行動力を涵養するためのものであることがポイントです。日本のGDPの7割はサービス産業で成り立っています。サービス産業では、「読み書きそろばん」よりも、コミュニケーション能力や立ち居振る舞いなどが重視されます。「文化資本」などといいますが、こうした素養は幼児期にしか身に付けることができません。だからこそ、家庭のみならず、社会全体で、こうした子育てを可能にする制度や環境をつくっていかないとならないのです。

多くの先進国では、就学前教育は子どもの権利のひとつとみなされ、それも無料であることがほとんどです。日本では権利として認められておらず、しかも有償です。そのため、子どもに多様な学びや経験を与えられるのは所得の高い世帯に限られてしまっています。美術館に行ったり、キャンプをしたりする経験も親の所得に比例しているというデータもあります。先進国の中でも日本の子どもの貧困率が高いことは知られるようになりましたが、「お金がないと個人の才能を開花させるための経験や体験が得られない」という不平等を解消するためにも、社会全体でこうした経験や体験を提供するしくみを作っていく必要があります。

子どもは他人と協働しながら
社会観を築いていく

―吉田先生は「西区こども食堂KaoKao」の運営に携わっていらっしゃるそうですね。

そう、KaoKaoと狸小路の映画館「シアターキノ」で連携して、映画『この世界の片隅で』の上映に子どもたちを無料招待するなんて企画も昨年の夏にやりましたが、これも映画館で映画をみることを実際に経験してもらって、太平洋戦争がどのように体験されたのかということを知ってもらえたらというのが趣旨でした。

こども食堂は子どもの貧困対策と結びつけられて捉えられがちですが、重要なのは現代社会の「貧困」には色々な顔があるという点です。小学校の先生から聞いた話ですが、ある共働き家庭では子どもの小遣いにと毎朝テーブルに1万円が置いてあるのだそうです。親は仕事で忙しいし、帰ってくるのも遅い。だから、せめてそのお金で好きな物を買って食べなさいと。この家庭は経済的には裕福かもしれませんが、子どもがひとりで食事しなければいけないような状況は貧しいといえないでしょうか。

私自身も、子どもの頃似たような経験をしたことが、子ども食堂に関わっている理由のひとつかもしれません。最近は「関係性の貧困」などと呼ばれるようになりましたが、人と人とのつながりが途絶えてそれぞれが孤立してしまい、居場所を失っていくような貧困が目立つようになってきました。子ども食堂は、こうした外から見えにくい関係性の貧困を「見える化」する場所としても機能します。「こども食堂KaoKao」は子どもだけでなく、その親や地域の大人も食事できる場所としても開放しています。親ではない誰かが自分のためにご飯を作ってくれて、普段接点のない他の子どもや知らない大人たちと一緒にごはんを食べる。「食べる」という、人間なら誰しもが毎日することを核に「小さな社会」ができあがっていく。そんな経験や体験は、子どもたちが、自らの生きる社会をどうみるかに影響するはず、と思っています。

―昔は子どもたちが集まっておやつを食べたり、ご近所で夕飯をごちそうになることも珍しくありませんでした。最近は学童保育やミニ児童会館の需要が増えているそうですが、子どもが「自分はひとりじゃない」と思える場がある社会なら希望を持てそうです。

その通りです。親は子どもにとって良くも悪くもロールモデル、振る舞い方の手本です。例えば虐待の要因はひとつに絞れませんが、統計的にみても、虐待を受けた子は、自らが親になって虐待をする確率がそうでない人たちと比べて高い。だから親以外のロールモデルを増やしておくこと、そして親も社会の一員であるということを示しておくことが大切なんです。親は絶対的な存在ではなく、世の中にはいろんな尺度や価値観があるとわかれば、社会は多様であっていいんだと子どもの方も思える。自分に対する評価の軸も広がるから、たとえ何かの壁に突き当たったとしても「この方法でダメなら別の方法もある」と柔軟に失敗を捉え、チャレンジし続ける力を持つことにもなる。反省性と行動力のセットですね。だから、多様なものが交差する場所に子どもを置くことは、子どもにも社会にとってもプラスになると僕は信じています。

2014年に埼玉県の川口市で17歳の少年が祖父母を殺害するという痛ましい事件がありましたが、その少年は彼に生活を頼って虐待もしていた母親にそそのかされて、お金を祖父母に無心した結果、犯罪に及んだとされています。『誰もボクのことを見ていない』(ポプラ社)という彼の証言の本にありますが、兄妹で公園に野宿していて、誰でもいいから誰か僕たちに声をかけてくれたら何とかなったかもしれないのに、という言葉が忘れられません。

いまの子どもたちの姿は、この社会の数十年後の姿です。子どもたちにいまの社会をどう眺めているのか、社会が彼らに何を提供できているのか、それらはそっくり全部未来に持ち越されます。成功体験がないゆえに将来に希望が持てない世代、子どもの頃に社会から大事にされた経験のない世代が社会の主流になれば、彼らは社会に尽くそうとは思わないだろうし、恩返ししたいと思う社会を作ろうとも考えないでしょう。子どもを大事にしない社会は、その子どもからいつかしっぺ返しを喰らいます。大人はどんな社会を作りたいのか、子どもたちに対して積極的にメッセージを発するべきです。それは自分たちの未来を考えるということでもありますから。

―子どもを外の世界へ連れ出す。その一歩を踏み出せずに孤立している親もいます。

現代社会は、人的なネットワークを持てる人と持てない人で二極化しています。他人から痛い目に合わされず、安心して家庭や地域で生きてきた人は、社会や他人に対する信頼があるので知らない世界に飛び込んでいく勇気を授かります。反対に、いつも脆弱な立場に追いやられて誰かに傷つけられるかもしれないという不安を抱いてきた人は、未知の存在を信用せず、逆に強いものに従う権威主義的な傾向を持ちます。

これは社会調査でも明らかですが、日本は知っている身内は大事にしてかばい合うけど、知らない他人に対しては不信感の強い国です。そうすると、知らない親の知らない子どもに対しても冷たいんですね。そうすると親もますます遠慮がちに、孤立しがちになる。でも社会というのは、他人と共有できるものや信頼できるものがあって、他人の役に立てば、巡り巡ってそれは自分にも還ってくるだろうという長期的視点があってはじめて成り立ちます。今の社会は自分の損は他人にとっての得であり、あるいは自分にとっての得は他人の損になるという損得勘定で成り立っている部分が多い。そうすれば他人への信頼がますます失われて、社会そのものが弱肉強食の生存競争の場になってしまいかねない。

多くの先進国で「自分の子どもは自分ほど豊かにはなれない」と考える親が過半数になっていますが、これは戦後初めてのことです。トランプ大統領に投票したアメリカ人の多くは、将来に対して悲観的な有権者だったということも有権者調査から判明しています。悲観する親たちほど「せめて私の子どもだけは」と教育熱を高ぶらせて資源を投入しますが、教育はきりがない。だから、やればやるほど、子育てに必要な資源は偏って不平等な社会を生み、みなが孤立していく悪循環に陥ってしまう。その悪循環に陥らないために踏みとどまれるかどうか、瀬戸際にあると思います。

ティッピング・ポイントに
向かって小さな変化を
起こし続ける

―なんだか悲観的な気分になってきました……子どもたちが大人になった時、希望を持てる社会をつくることはできないのでしょうか?

最近翻訳されたアメリカの政治学者、ロバート・D・パットナムの『われらの子ども』(創文社)は、家庭環境や社会階層、生きているコミュニティによって、「結果の平等」どころか「機会の平等」すらも異なり、子どもが将来どういう選択肢を持つのかに大きな格差が生まれていることを徹頭徹尾証明した好著です。パットナムは、この絶望的な格差を打開するためには「私の子ども」から「われらの子ども」へと意識を転換することが必要と言います。「個人の責任としてではなく、社会の責任として子どもを育てる」という考え方にシフトしていかなければならないのは日本も同じです。それは子どもを保護してきた家庭や地域が過去20年に渡ってやせ細ってしまっているからです。そうであれば、その減った分を社会全体で面倒をみるしかない。さっきいったように、それは社会にとってもプラスになります。

少なくとも、今までのやり方が通用しなくなっているのは確かで、嫌が応でも社会は変わらざるを得ない。必要なのは変化を止めることではなく、変化を良い方向に変えていくことです。小さな変化が積み重ねっていってある特定の点に到達すると劇的な変化が起こることを「ティッピング・ポイント(tipping point:閾値)」といいます。大切なのは「やってみたら意外とできるんじゃん」という小さな成功体験を積み重ねていくことではないでしょうか。「職場に子どもがいても仕事はできる」「子育てが大変なら周りの人に助けてもらえばいい」「他人の子どもも叱ってもいいんだ」と思える人がひとりずつ増えていけば、いつかきっと社会は変わります。僕も子育ては、周りに出来るだけ甘えるようにしています。親としてはダメダメで恥をかいても、それを見かねて誰かが手助けしてくれれば、それは子どもにとってはプラスの経験になるんです。親以外も自分をみてくれるんだ、ってね。

現実として人が困っているという絶対的な事実を大事にして、その要因を具体的にどう解決していいかを考え抜けば、結果として社会全体が変わる。そもそも内側から物事を変えるにはそれ位しか方法はないんです。だから、そんな未来像を描きつつ、小さな変化を起こし続けていけばいいんだと思います。

─国家レベルでいきなり社会を変えるのは難しいけれど、いま住んでいるまちやコミュニティの中でなら、できることはありますよね。大切なのは、自分たちの子育てを取り巻く現状をきちんと把握し、周囲の人々と協働しながら小さな変化を起こし続けること。gurumiも、一人ひとりができることを考えるきっかけとしてお役に立てればいいなと思います。吉田先生、ありがとうございました!

テキスト:佐々木美和 写真:辻田美穂子